進撃の巨人の深みを考察するこのブログ。久しぶりにそんな感じの記事を書きたくて。
進撃の巨人が描写する「人間の生」について哲学・心理・スピ的な見方を交えつつ考察します。
生きることをどう捉え、何のために生きるのか。
とくに進撃で描写されている、「生の肯定と否定」、そして「個人の夢vs.公に身を捧げる」という2つの軸から見ていきます。
必然的に、「争い続ける人間」についての話にもなります。
そして、その歴史の発端となった始祖ユミルの解放について妄想。
131話既読。長めです。ごゆるりと。
進撃の巨人と生の哲学ーまたは人間の争いの根源について
自己の生の肯定と否定ーまたは争い続ける人間のジレンマ
言うまでもなく、否定のほうを象徴するのが、不戦の契りに縛られた王家とジーク。
対する肯定派「オレがこの世に生まれたからだ!」のエレン。
否定のほうは、「過去のエルディア帝国の歴史」、つまり巨人を使った他民族の虐殺への「罪悪感」がそのベースになっているようです。
王家がこれに縛られています。
いずれ来る島の破滅を受け入れるという立場。
ジークははちょっと違ってて、積極的にエルディア人の根絶が救い。
エルディア人の生は基本的に苦しみでしかないので、生まれてこないように殺すのが慈悲だという考え。
この動機には、幼少期に「父から愛されなかった」→「生まれてこなればよかった」という個人的な感情がベースにあると思います。
哲学で言えば、反出生主義ショーペンハウエルと話が合いそうです。
人間にとってもっとも善いことは、生まれなかったこと、存在しないこと、何者でもないことだ。次に善いことは、すぐに死ぬことだ
アルトゥル・ショーペンハウアー - Wikipedia
興味深いのは、次の文。
カント直系を自任しながら、世界を表象とみなして、その根底にはたらく〈盲目的な生存意志〉を説いた。この意志のゆえに経験的な事象はすべて非合理でありこの世界は最悪、人間生活においては意志は絶えず他の意志によって阻まれ、生は同時に苦を意味し、この苦を免れるには意志の諦観・絶滅以外にないと説いた
盲目的な生存意志と言えば、思い浮かぶのはこれですね。
この意志ゆえに、まさに合理的とは言えない地ならし発動中。この世界は残酷であり、過去にもエルディアがかつて他民族にしたように、次はマーレがエルディア人を弾圧したように、意志は絶えず他の意志によって阻まれ、この苦を終わらせるためには(巨人になれる自分たちの)絶滅以外ない。
というのが否定派。
一方、肯定派のエレン。
ここにジークのような理屈はありません。
まさに、「この世に生まれたからだ」という〈盲目的な生存意志〉。
生まれたから生きる、もっと生きたい世界を見たい。それを阻む敵は殺すという本能的な衝動。
理屈にしたらニーチェになるかなと思いますが。
彼は一時期ショーペンハウエルに傾倒し、その後離反したと言われているようです。
力への意志は、ニーチェの考えによれば人間を動かす根源的な動機である: 達成、野心、「生きている間に、できるかぎり最も良い所へ昇りつめよう」とする努力、これらはすべて力への意志の表れである
力への意志 - Wikipedia
生存には力も必要だから、生存意志=力への指向にもつながります。
エレンは誰よりも強く無力感を体験し、そして誰よりも強い力を手に入れました。
この盲目的な生存意志と力の行きついた先が地ならし。
131話で地ならしの理由で「夢を見たかった」エレンが出てきたのは、今考えるとこの「生の拡大」という根源的動機を表しているような気もして。
言わば、広い意味での〈生の意志〉が他者の生の否定につながってしまうという一つの現実。これを究極まで押し進めたのがエレンという主人公。
もちろん、そのジレンマは、「殺して仲間を守るか、殺されて他者を救うか」という究極の二者択一を迫られる状況において出現しているもの。
本来、人間の性質がそうでしかあり得ないかはまた別の話でしょうが。。
ただ、このジレンマは人類が一人以下にならない限りなくならないのかもしれない。
あ、忘れてはいけないのが、彼。
両極端なジークとエレンの中間地点。
私がこの世に生まれてきてしまったから
ここには、真実の歴史を知り自らを誇れない気持ちを持ちつつ、なおかつ生きようとする普通の人間がいました。
彼は巨人の力を持っていませんでした。
彼のパーソナリティも「ふつうの人間」として描かれてるのは偶然ではないでしょう。
個人としての夢 vs. 公に心臓を捧げるーまたは個人の意識は別々である問題
そしてもう一つの軸がこれです。
今まで見てきたのが(エルディア人の)生の肯定か否定かという大きな枠、こちらは自分の夢重視か他者のために自分を犠牲にするかという生き方の違い。
言い換えれば、「利己主義」と「利他主義」になるでしょうか。
個人としての夢と言えばまず思い浮かぶのがエルヴィン。
あとはケニー、そして、微妙だけどエレン。
公に心臓を捧げると言えば、ハンジやピクシスが代表格かな。
ザックレーはそうかと思いきや、根っこには自分の趣味の野望がありましたからね。
あの趣味、けっこう好きですけど。
ジークも微妙ですね。
エルディアの安楽死による救いは、ほぼ父親への囚われと言っていいものでしたし。
というわけで、もともと利己と利他は明確に区別しにくいし、キャラによって、どっちとは言い切れない微妙な割り切れないところがある。
エルヴィンも、最後に自分の夢を捨てて身を捧げましたし。ケニーも最後注射器をリヴァイに託した。キースも含めて、利己から最後に利他に転換したキャラは多い。
こうやって見ると、根っからの利己主義っていないんですね。王様据えた貴族階級くらいか。
あ、彼は・・。
彼はパラディ島のために戦ってるだろうって?うーん・・。少なくともこの人も、個人的な執着に囚われてるからなあ。。
まあ、むしろ彼は自分の命すらどうでもいい感じなので、もう利己でも利他でもないかも。
さて、この利己と利他の精神がもっともねじれて同時に存在しているのが、やはりエレン。
自分を犠牲にして仲間を守る、だけでなく、自分の見た夢を実現するために地ならしという大量虐殺をする。
ここに、利己主義=利他主義という理想は存在せず、どちらを選んでも破壊にしかつながらない。
何がねじれの大元なんでしょう。巨人の存在か、始祖ユミルか。
それとも、悪魔ルシファーによる「自由意志」の実験か。
分かりやすい~。
この説だと、人間の争いの根源は「自由意志」が生まれたこととほぼイコール。
だから失楽園が重要で、だから”悪魔”としてのエレンは自由意志にこだわる。
で、利己と利他に分かれるのは、個人という意識に分離しているからという説明になりますね。でも、そもそも大元はおんなじだから、利己と利他は割り切れないのかも。
実際に、人間の意識は「自己」が中心だけど、その自己の範囲はけっこう変わりうる。
エレンの仲間を守るというのも世界から見たら利己主義になるし、結局どこで境界を区切るかの話になる。
読者は、初めパラディ島目線で読むからマーレ組は敵になる。そしてグロス曹長は食われてザマーミロ(;’∀’)と自分もちょっと思ったけど、進撃にはこの自己と非自己(敵)を作るからくりを疑似体験させる仕掛けがある。
疑似と言っても、心の動き自体は現実と何も変わらないんですけどね。
話がとっ散らかりますが、個人的には進撃において、この二元性の対立を越える第三の道が出てくるのか?というのが気になるところ。
そして始祖ユミルの意識(記憶)が解放されるとき、自由は訪れるか
というわけで。繰り返す争い、人間の不自由さは意識(記憶)と切っても切れない関係にあります。
罪の記憶、憎しみの記憶、仲間や夢の記憶。エレンの場合は未来の記憶も縛りになっている。
それはなぜなのか?
ショーペンハウエルやニーチェは「生の哲学」の歴史の中に入るそうですが、その流れで今回もう一人面白そうと思った人がいます。
それがベルクソン。
どうもこの方は、過去の記憶を繰り返す人間の性質について言及しているよう。
今聞いている一つの音は、ただその音としてではなく、過去の音も含めた一つのメロディラインとして認知され、現在の音として聞き直される。同様に、過ぎてしまった過去の記憶も、常にわれわれの「現在」として生き直され、ゆえに自らの生のいっさいは、身体的な記憶とともに、いま「現在」の真っ只中で生じていることになる。
【素人解説#1】ベルクソン~"生命の跳躍"を讃える端麗な実在論|ばる|専業読書家(人文学)新しく哲学者解説のマガジンをはじめました!趣旨は↓にまとめています。 記念すべき1記事目は、フランスの哲学者アンリ・ベルクソン(1859-1941)についてです。 アンリ・ベルクソン - Wikipediaja.wikipedia.org ベルクソンは、他に類を見ない、壮大で美しい生命の展開を捉えたオリジナリティあふれ...
過去の記憶が常に現在に生きている。
「時間が繰り返している」感覚というのも、ここに起因するのかもしれない。
しかし、普段われわれがこのことを日々の暮らしの中で特別意識しないのは、脳の絶え間ない「生活への注意」が、過去の十全な展開を押し留め、ある特定の記憶、生活の目的に必要な記憶のみを常に前景化させていることによります。―中略ー ベルクソンにあって、生活への注意が完全に削がれた「夢」の中において、純粋記憶としての過去はもっとも自由に踊り、躍動します。
実際、自分の内面を注意深く見ていくと、ふだんは意識しない過去の記憶(感情)がいかに影響しているか、を感じることができます。
問題になるのはネガティブな感情を伴った記憶。そしてそれはつねに解放されたがっている。
始祖ユミルの記憶も、基本は過去の心残りがその存在理由でしょう。
ただ同時に、この記憶の蓄積があるからこそ、人間はそこに自分にしか感じられない意味を感じる。
これが生きる原動力にも成長にもつながる。
こうして創造される「イマージュ」の総体が、具体的な物質の実在とともにわれわれにとっての「意味」をも同時に、「現在」において作り出します。その実在は、単に一般的なピアノのそれではなく、わたし個人にとっての記憶と分かちがたく結びあった、個性的な意味合いを持つ実在となるでしょう。
さて、なぜエレンが未来の記憶に縛られてるかっていうと、始祖ユミルの意識が作った道は彼女の心残りを成就させるためのもの(だと思う)なので、初めから何らかの「自由」に向かって方向づけられているからと言える。
(過去の記憶が未来を方向づけることになる。それはそこに「願い」があるから。「その行いが報われるまで進み続け」なくてはいけない。ここから未来の記憶まではもう少しの話・・たとえば進撃の巨人だけが未来を知るのはその願いがあまりにも強かったから、かな)
問題はその自由が今のところ、そんな自由にしかならないところでしょうが、もし彼女が生きてる間に意志を持てていたら、例の王(子種おじさん)を巨人の力で倒していたことは想像に難くない。
つまり、まず支配への反抗。ここはエレンと一致していたということだろう(結果地ならし)。しかしその次に、彼女のさらに奥底にある心残りが成就されなければならない、はず。
そして、それは「愛」が決め手に違いない。
分離した意識を越える唯一の可能性。
クルーガーの言葉があるように、それが繰り返しからの脱却につながるおそらくカギになる。
そして、彼女が座標から解放されるとき‥エレンの役割は終わり、同時に始祖ユミルの望みを成就させるためのシステム=「過去と未来の間に渡された橋」である道もきっと消滅する。
意識は、あったこととあるだろうこととの、間を結ぶ連結線であり、過去と未来の間に渡された橋である。
「ベルクソン」とその思想とは?著書『時間と自由』や名言も紹介 | TRANS.Bizアンリ・ベルクソン(1859年~1941年)は、美しい文章と独創的な思想で知られるフランスの哲学者です。この記
必然的に巨人の歴史は終わり、もしまだ文明が残ってればヒストリアの子ども(たぶん”ユミル”)は一人の子どもとして生きる。
(そしてアルミンは歴史を書き記す語り手として生き、鳥たちの記憶によって映像として再現され、それを私たちは見ている、とかなんとか‥)
そうそうきれいにはいかない気もするし、トラウマエンドも見たいけど、131話のアルミンを見ると、、そんな何かは来るんじゃないかと期待してしまうのです。
トラウマなエンドと同時に、そんな何かが見えてこないかなと。
意識とは、自由を伴った記憶であり、そこには真の成長がある
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