みんな何かに酔っ払ってねぇと やってらんなかったんだな…
みんな何かの奴隷だった… あいつでさえも…
69話「友人」
このセリフをスピリチュアル的に一言で言うと・・
ケニーが言ってるのは、みんな人間の「自我」の見る夢を見てた、っていうことだと思います。
何かに酔ってないとやってられない理由
自我ってどういう意味で?ということで、続く彼のセリフ。
今なら奴のやったこと… わかる…気がする…
俺が…見てきた奴ら… みんなそうだった…酒だったり… 女だったり… 神様だったりもする
一族… 王様… 夢… 子供… 力…
これらが「自我の見る夢」。
ここで言う自我は、「肉体としての人間が持つ個人の意識(感情・欲求含む)」。
潜在意識も自我の領域と言えます。
*自分の考えにフィットする言葉の使い方をしています
言いたいポイントは、個人としての記憶によって過去の影響を受けること。
したがって、(無意識的な)ネガティブな記憶や感情も多かれ少なかれ抱えていること。
その性質上、自我は不安や恐れを抱えやすく、その欠落を埋めようとします。
しかし、この世は有限であり、完全なものはありません。
なので、その欠落を外側から埋めようとすると、どこまでいってもキリがありません。
つまり、求めるものや信じる価値が、欠落を埋めるためのものであれば、「何かに酔っぱらってないと」ダメな状態になる。
そこには必ず、自分自身が見たくない感情が隠れています。
不安・恐れ・無力さetc。
これらが、酔ってないとやってられない自我の縛りになります。
何かの奴隷ではないもの
おそらく、ケニーも「何かの奴隷ではないもの」を無意識に探していたのでしょう。
それは、どうあり得るのか。
ケニーの場合、彼のセリフでなく、リヴァイに注射器を渡した行動に、それが表れているかもしれません。
子どもでも神でも力でも、自我の幻想(欠落は変わり得るので幻想と言えます)に縛られていないものであれば、それは何かの奴隷とは言えないでしょう。
そして、ここがパラドクスだと思いますが、「自我の縛り=ネガティブな感情」を解放するためには、むしろそれを大事に見ていく必要があります。
癒しという観点から見れば、自我の領域である「潜在意識」は万能でもなんでもなく、潜在意識の感情を癒すのはより高次元のものです。
高次元というと誤解されやすいですが、より深い意識、つまり「無条件の愛」につながるもの。
だから高次元が良くて、自我がよくないという話ではないですね。
そもそも「良い悪い」を判断するのが自我なので、そういう判断をしない次元に癒しがあるということ。
ともあれ、そうやって自分の心をよく見て解放できれば、それが「何かの奴隷ではない望み」=「自由」につながるのだと思います。
というわけで、、ケニーの話でした。
彼は、何かの奴隷である人間のあり方に気づきました。
死の間際になって、自身の夢が叶わないことを悟って、同時に「力の奴隷」から解放された、のかもしれません。
そして、リヴァイのおじとして、育ての親として最後に注射器を渡した。
だからこそ、それがリヴァイの「白夜」でのあの選択につながったのだろうと思うのです。
*以前の記事とだいたい結論は同じですね。これこそ「言いたいことに寄せすぎ」パターンなのかもしれませんが、、まあ心理的に深掘りということで^^;
*あと、人間の意識っていつからあるのでしょうか?わずか3000年前という説もあるし、意外と最近なのかもしれない(やはり「知恵の実」から全ては始まり…)。
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